映像制作会社のM&Aでは、最新のカメラや編集室だけで価格が決まるわけではありません。買い手が確かめたいのは、会社が誰から、どの経路で、どのような仕事を受け、どれだけの粗利を残し、来期以降も再現できるかです。その問いに答える中心資料が「案件台帳」です。案件台帳を整えると、顧客基盤、地域での商流、スタッフと外注先の役割、受注残、入金サイト、権利処理までを一本の線で説明できます。本稿では、地域の映像制作会社が日々の制作管理をM&Aの説明資料へ育てるための実務を、項目設計、運用、正常収益の把握、デューデリジェンス対応、90日間の準備計画まで順に解説します。
なお、本稿は一般的な情報提供を目的とし、企業価値、会計、税務、法務上の結論を個別案件について示すものではありません。案件の契約内容、会計方針、取引形態は会社ごとに異なります。M&Aを具体的に検討する場合は、仲介者・FA、公認会計士、税理士、弁護士などの専門家と原資料を確認してください。当センターの支援範囲はサービス内容、相談から成約までの一般的な進み方はM&Aの流れ、譲渡を考え始めた方向けの情報は譲渡企業様へをご覧ください。
1.案件台帳は「売上一覧」ではなく、会社の再現性を示す設計図
映像制作会社の決算書には、完成した仕事の結果が金額として現れます。しかし、その売上が地域の広告代理店から継続的に紹介される案件なのか、社長の個人的なつながりで一度だけ受注した案件なのかは、勘定科目だけでは読み取れません。粗利が高く見えても、社内スタッフの残業や代表者の無償稼働が吸収しているかもしれません。逆に、今年の利益が低くても、来年度に実施が決まっている自治体の大型事業に向けて先行採用している場合があります。案件台帳は、こうした数字の背景を案件単位で解きほぐすための資料です。
買い手にとって重要なのは、譲受け後も売上と制作能力を維持できる見込みです。顧客名だけでは足りません。発注者、元請、代理店、最終クライアントの関係、見積決裁者、現場窓口、再発注の時期、指名の理由、競合状況まで見えると、顧客関係をどう引き継ぐか検討できます。さらに、プロデューサー、ディレクター、撮影、照明、録音、編集、MA、ナレーターなどの体制と外注費をひも付ければ、利益の源泉とボトルネックも明確になります。
案件台帳の目的は、将来を保証することではありません。過去の事実と現在の見込みを区別し、第三者が合理的に検討できる材料をそろえることです。「毎年必ず来る」「この顧客は絶対に離れない」と断言するのではなく、過去三年間の発注回数、提案中の案件、契約や発注書の有無、担当者との関係、失注履歴を示します。根拠を添えて説明する姿勢そのものが、管理体制への信頼につながります。
案件台帳が答えるべき五つの質問
- 誰が代金を支払うのか。発注者と最終クライアントを分け、回収責任の相手を明確にします。
- なぜ自社が選ばれたのか。地域ネットワーク、専門性、実績、価格、機動力など受注理由を記録します。
- 何を納め、いつ売上と入金になるのか。成果物、検収条件、請求条件、入金予定日をつなげます。
- 実際にいくら残ったのか。外注、機材、旅費、音源、修正工数など案件固有の原価を把握します。
- 次回も受注できる根拠があるか。発注周期、次回予算、継続契約、顧客評価、引合い状況を示します。
2.映像制作業ならではの「売上の見えにくさ」を先に整理する
映像制作は、相談から納品までの工程が長く、見積変更や追加修正も起こりやすい業種です。企画費、撮影費、編集費を一括で請け負う案件もあれば、撮影クルーだけを日当で提供する案件、機材レンタルを含む案件、年間契約のSNS動画、ライブ配信の運用、放送局の応援、自治体のプロポーザル案件もあります。同じ「売上100万円」でも、必要な人員、期間、権利処理、資金負担はまったく異なります。
地域企業では、広告代理店や印刷会社を経由して最終クライアントの動画を制作する商流が多く見られます。請求先は代理店でも、企画の承認者は自治体や地場企業です。元請との関係を守る必要がある一方、最終クライアントの業界知識や過去素材を蓄積していることが、次の受注に効きます。台帳では「請求先」と「実質的な需要者」を分けて管理し、守秘義務や営業上の配慮を前提に、誰との関係が価値を生んでいるかを把握します。
また、制作開始と会計上の売上計上時期が一致するとは限りません。着手金を受け取る会社、完パケ後に一括請求する会社、月ごとに出来高を請求する会社があります。自治体案件では年度末検収が集中し、学校行事や観光プロモーションは季節性を持ちます。案件台帳には「受注日」「制作開始日」「撮影日」「初稿提出日」「検収日」「請求日」「入金日」を別々に持たせます。これにより、制作負荷、売上、キャッシュフローのずれを説明できます。
3.まず作るべき案件台帳テンプレート
最初から完璧なシステムを導入する必要はありません。表計算ソフトでも、案件IDを軸に原資料へたどれる設計であれば有効です。重要なのは、行を案件単位にそろえ、同じ定義で継続入力することです。一つの案件に複数の納品や請求がある場合は、案件台帳を親、請求明細や原価明細を子として分けます。一行に情報を詰め込み過ぎるより、案件IDで複数表を関連付ける方が、後の集計と確認が容易です。
| 区分 | 主な項目 | 確認したいこと |
|---|---|---|
| 識別 | 案件ID、案件名、年度、ステータス | 資料間で同じ案件を追えるか |
| 顧客 | 請求先、発注部署、最終クライアント、業種、地域 | 売上の相手と需要の源泉は誰か |
| 商流 | 直取引、代理店経由、下請、共同受注、公募 | 関係者と契約上の立場は何か |
| 受注 | 流入経路、紹介者、見積日、受注日、失注理由 | 受注の再現性と営業依存度 |
| 制作 | 用途、尺、媒体、納品形式、撮影日、検収日 | 工程と負荷を比較できるか |
| 売上 | 当初見積、変更見積、受注額、計上額、請求額 | 見積から最終金額まで説明できるか |
| 原価 | 外注費、機材費、旅費、出演料、音源、媒体費 | 案件固有の変動費を漏れなく把握したか |
| 社内工数 | 企画、撮影、編集、修正、管理の時間 | 見かけの粗利に隠れた稼働はないか |
| 回収 | 検収条件、請求日、支払条件、入金予定、実入金 | 回収サイトと滞留債権を追えるか |
| 継続性 | 再発注回数、周期、次回予定、窓口、引継ぎ難度 | 譲受け後の継続可能性をどう見るか |
| 契約・権利 | 契約書、発注書、出演同意、素材利用、二次利用 | 成果物や素材をどこまで利用できるか |
| 証憑 | 見積、発注、納品、検収、請求、入金の保存先 | 数字を原資料で確かめられるか |
案件IDは「年度―顧客コード―連番」のように、人が見ても重複しにくい規則にします。ファイル名にも同じIDを付けます。たとえば「26-ABC-014_発注書.pdf」「26-ABC-014_最終見積.xlsx」「26-ABC-014_検収メール.pdf」のようにそろえると、デューデリジェンスで抽出された案件の証憑を短時間で提示できます。顧客名をファイル名へ直接入れると共有範囲によって情報漏えいにつながる可能性があるため、データルームではコード化やアクセス権も検討します。
ステータスは「確度」と「工程」を混ぜない
よくある混乱は、「見積中」「撮影済み」「請求待ち」「ほぼ確定」が同じ列に入ることです。営業確度と制作工程を分けましょう。営業確度は、相談、要件確認、見積提出、内示、発注書受領、失注など。制作工程は、企画、プリプロ、撮影、編集、初稿、修正、納品、検収など。請求回収は、未請求、請求済み、入金済み、遅延確認中などです。三つの軸を分けると、「発注済みだが未撮影」「納品済みだが未検収」「請求済みだが未入金」を正確に抽出できます。
4.顧客情報は「会社名」だけでなく関係の構造を記録する
顧客台帳には、法人名、法人番号や所在地などの基本情報に加え、請求先部署、担当者、決裁者、制作現場の窓口、支払条件を持たせます。ただし、個人情報は利用目的、保管場所、アクセス権を整理し、必要以上に収集しないことが前提です。M&Aの初期段階では顧客名を匿名化し、秘密保持契約や開示範囲に応じて段階的に情報を開く運用も検討します。
映像会社の顧客関係は複層的です。広告代理店からの発注で地元メーカーの採用動画を作る場合、売上先は代理店、最終利用者はメーカーです。代理店の営業担当が案件を持ち込み、自社のプロデューサーが要件を具体化し、メーカーの人事部が出演者調整と最終承認をするかもしれません。台帳には、売上先、最終クライアント、紹介元、決裁経路、自社の主担当を別項目にします。誰か一人が退職したとき、どの関係が途切れ得るかを考えるためです。
顧客マスターに加えたい定性項目
- 選定理由:地域での実績、医療・製造・観光などの業界理解、短納期対応、配信技術、過去素材の蓄積など。
- 関係開始の経緯:紹介、公募、相見積もり、既存顧客の異動、協力会社からの依頼など。
- 担当者の交代履歴:担当変更後も受注が続いているか、経営者以外に接点があるか。
- 予算形成の時期:年度予算、展示会、採用、周年、観光シーズンなどの発注サイクル。
- 品質評価:アンケート、検収コメント、リピート理由、クレームと是正内容。
- 引継ぎ上の注意:守秘、入札資格、指定外注先、セキュリティ条件、現場入構要件など。
「社長の人脈」という言葉で終わらせず、関係を組織資産へ変換します。社長だけが知る担当者名をCRMへ移し、打合せには次世代の担当者を同席させ、議事録と提案履歴を共有します。買い手が評価するのは、社長が人気者かどうかではなく、その信頼を会社として引き継げる仕組みがあるかです。属人的な関係が悪いのではありません。属人性の所在と移行方法が説明できないことがリスクになります。
5.商流を描くと、同じ売上でも交渉力の違いが見える
案件ごとに商流コードを付けます。例として、Aは最終クライアントとの直接取引、Bは広告代理店・印刷会社経由、Cは放送局や大手制作会社の下請、Dは共同企業体・コンソーシアム、Eは自治体等の入札・プロポーザル、Fは自社企画・ライセンス収入、といった分類です。分類は自社の実態に合わせて構いませんが、定義表を別シートに置き、担当者によってぶれないようにします。
直取引は粗利が高く見えることがありますが、営業、企画、顧客調整、請求回収を自社で担うため、社内工数も増えます。代理店経由はマージンで単価が抑えられる一方、案件供給が安定し、最終クライアントの与信や要件整理を代理店が担う場合があります。下請案件は営業費用が小さい反面、価格決定力や素材の利用範囲が限定されることがあります。優劣を決めるのではなく、商流別の売上、案件数、粗利、回収期間、工数を比較することが重要です。
地域の商流では、自治体、観光協会、DMO、学校、商工会、地場企業、ローカル放送局、広告会社が案件ごとに異なる役割を持ちます。最終クライアントが同じでも、年度によって受託する代理店が変わることもあります。その場合、「最終クライアント別」と「請求先別」の双方で三年推移を作ります。これにより、特定代理店への依存と、地域テーマへの専門性を分けて説明できます。
6.売上は当初見積、変更、最終受注、計上、請求を分ける
制作現場では、撮影日追加、ロケ地変更、出演者調整、尺変更、多言語化、縦型動画の追加などで金額が変わります。当初見積だけを残し、追加作業を口頭で受けると、最終的な採算も契約条件も追えません。案件台帳には当初見積額、承認済み変更額、最終受注額、会計上の売上計上額、請求額を別々に記録します。差額がある場合は理由を短く書き、変更見積や承認メールへリンクします。
値引きも重要な経営情報です。「地域の付き合いだから」「次回を期待して」「不具合のお詫び」といった理由を分類すると、営業上の値引きと制作上の手戻りによる減額を区別できます。値引き前の見積を売上実績として扱うことはできませんが、見積と受注の差を分析すれば、価格交渉力や見積精度を改善できます。M&Aでは、提示された売上が請求書、入金、会計帳簿と整合するか確認されるため、最終金額の履歴が役立ちます。
売上の月別推移だけではなく案件コホートを見る
月別売上は季節性を示しますが、長期案件の実態を見失うことがあります。受注月ごとの案件群を「コホート」としてまとめ、受注から撮影、検収、入金までの平均日数を測ります。自治体の年度末案件は受注から検収まで短く、採用ブランディング動画は関係者が多く長期化するかもしれません。案件種類別のリードタイムが分かれば、受注残をいつ売上へ転換できそうか、必要運転資金はいくらかを検討しやすくなります。
7.外注費は「支払先」だけでなく役割と代替可能性を記録する
映像制作会社の価値は、社内人員だけでなく、地域のフリーランスや協力会社のネットワークにも支えられます。撮影監督、カメラ、照明、録音、ドローン、ヘアメイク、スタイリスト、キャスティング、編集、CG、MA、ナレーション、翻訳など、案件に応じて編成できることは競争力です。外注明細には支払先、役割、発注日、業務内容、金額、支払日、契約・発注書の保存先を記録します。
M&Aの観点では、年間外注額の大きい相手、代替しにくい技術、口頭発注への依存、代表者との個人的関係を確認します。特定のカメラマンが地域案件の大半を担っているなら、その人との継続意向や条件は重要です。ただし、譲渡後も必ず継続すると断定はできません。過去の稼働、基本条件、連絡窓口、予備の候補者、機密保持や権利に関する合意状況を整理し、必要に応じて本人との協議を段階的に進めます。
外注費を案件へひも付ける際は、請求書の総額を複数案件へ機械的に割らないようにします。月額契約の編集者、複数現場を回る車両、年間ライセンスの音源などは、合理的な配賦基準を決めます。たとえば実稼働時間、案件数、売上比などです。配賦は唯一の正解ではありませんが、基準を文書化し、年度間で一貫させることが比較可能性を高めます。
8.機材費を「購入額」だけで見ない
カメラ、レンズ、照明、録音、スイッチャー、配信回線、編集機、ストレージは、案件採算と設備価値の両方に関係します。案件台帳では、外部レンタル費、輸送費、消耗品、特別な保険など直接発生した機材関連費を記録します。自社保有機材は、案件ごとの現金支出がなくても、稼働状況を別表で把握します。社内利用単価を置く場合は、減価償却や維持費との関係を整理し、会計上の原価と管理会計上の機材チャージを混同しないようにします。
固定資産台帳には、資産番号、品名、型式、シリアル、取得日、取得価額、帳簿価額、保管場所、使用者、修理履歴、リース・割賦の有無を持たせます。案件台帳の機材欄から資産番号を参照できると、どの機材が売上を支えているか分かります。高価な機材でもほとんど使われていない場合があり、古い機材でも特定顧客のワークフローに不可欠な場合があります。簿価、時価、事業上の有用性は同じではありません。
ソフトウェア、クラウドストレージ、素材管理、フォント、プラグイン、音源ライブラリの契約も忘れがちです。アカウントが個人名義になっていないか、譲渡や管理者変更が可能か、同時利用数は足りるかを一覧化します。ライセンス条件はサービスごとに異なるため、契約を確認し、必要なら提供会社や専門家へ照会します。
9.「修正工数」を測ると、利益が漏れる場所が分かる
映像案件の採算を崩す典型は、追加修正の見えない膨張です。「少しだけ色を変える」「テロップを一行直す」でも、素材確認、書き出し、アップロード、顧客確認まで含めると時間がかかります。複数部署から別々に指示が来ると、修正の往復が増えます。台帳には初稿日、修正回数、修正時間、主な理由、追加請求の有無を記録します。
修正理由は、顧客都合、当初要件の不足、自社ミス、素材差替え、法務・ブランド審査、出演者都合などに分類します。顧客都合の追加修正が多いなら、見積の修正回数、指示の取りまとめ、追加料金の条件を見直せます。自社ミスが多いなら、撮影前チェックや編集レビューを改善します。単に「面倒な顧客」と評価するのではなく、再発防止可能な工程へ翻訳することが大切です。
社内工数は、一分単位の厳密さよりも、比較可能な記録を続けることを優先します。企画・営業、プリプロ、撮影、編集、修正、進行管理、納品の区分で、半時間または一時間単位から始めても構いません。代表者の稼働も除外せず記録します。代表者が無償で深夜編集して利益を作っている案件は、買い手が同じ体制を再現するには人件費が必要だからです。
10.粗利は三段階で見ると現場と決算の橋が架かる
案件別の利益は、会社の会計方針に合わせて定義する必要があります。そのうえで管理上は、少なくとも三段階に分けると便利です。第一段階は売上から案件へ直接ひも付く外注費、レンタル、旅費、出演料、音源等を引いた「直接粗利」。第二段階は社内制作時間を標準時間単価で評価して引いた「工数反映後利益」。第三段階は家賃、管理部門、共通ソフトなどの間接費を一定基準で配賦した「案件貢献利益」です。
この三段階は会計上の正式な利益区分と一致するとは限りません。目的は、受注判断とM&A説明の補助です。計算式、時間単価、配賦基準を明示し、決算書の売上総利益や営業利益へどのように接続するかを調整表で示します。たとえば、案件台帳に入っていない機材減価償却、正社員人件費、共通経費を調整項目として一覧化します。案件別合計と試算表の差額を毎月確認すると、原価入力漏れにも早く気づけます。
粗利率だけで優良案件を決めない
粗利率80%でも売上が小さく、代表者が長時間対応する案件は、会社全体への貢献が限られるかもしれません。粗利率30%でも、定型化され、外注を活用し、毎月安定して受注できる案件には価値があります。粗利額、粗利率、社内工数一時間当たりの利益、回収期間、再発注率を組み合わせて見ます。戦略的な実績作りや新分野への投資案件は、通常案件とタグで分け、意図と期限を記録します。
11.検収・請求・入金を一つの線でつなぐ
「納品した」と「検収された」は同じではありません。プレビューURLを送った日、完パケデータを納めた日、顧客の承認が届いた日、請求可能になった日を分けます。契約や発注書に検査期間、修正、検収方法が定められている場合は、その条件を台帳に要約し、原文へリンクします。メールで検収される取引なら、承認メールを案件フォルダへ保存します。
請求管理では、請求書番号、請求日、支払期日、税込・税抜の区分、入金予定額、実入金日、差額理由を記録します。振込手数料、源泉徴収、相殺、分割入金などで請求額と入金額が一致しない場合は、経理処理を専門家へ確認しつつ理由を残します。長期滞留は、営業担当任せにせず、経理担当と責任者が定期的に確認します。
M&Aのデューデリジェンスでは、売上の実在性や期間帰属を確認するため、契約・発注、納品・検収、請求、入金、会計記録が照合されることがあります。全件を一度に提出するとは限りませんが、サンプル抽出された案件に対し一連の資料を出せる状態が理想です。個人情報、未公表企画、取引先秘密を含む資料は、マスキング、閲覧権限、開示時期をアドバイザーと検討します。
12.上位顧客分析は「依存度」と「強さ」を同時に見る
売上上位10社について、直近三期の売上、粗利、案件数、平均単価、最終受注日、取引年数、商流、担当者、契約更新、入金サイトを一覧化します。売上構成比が高い顧客は集中リスクになり得ますが、長年の関係と安定した発注が強みでもあります。単に比率を下げるべきだと決めず、契約、発注履歴、競争状況、窓口の分散、引継ぎ可能性を総合的に見ます。
上位顧客分析では、請求先単位だけでなく企業グループ、自治体関連団体、代理店の先にある最終クライアントも集約します。請求先が五つに分かれていても、実質的には一つのグループ予算に依存していることがあります。逆に、一つの代理店への売上が大きくても、最終クライアントが多業種に分散していれば、需要源は分散しています。この違いを商流図で示すと理解が進みます。
集中度を説明するための質問
- 上位一社、上位三社、上位十社の売上構成比は三年間でどう変化したか。
- 上位顧客の粗利率と回収期間は全社平均に比べてどうか。
- 契約は都度発注か、年間契約か。自動更新、解約、チェンジ・オブ・コントロール等の条項はあるか。
- 自社窓口は代表者だけか、プロデューサーや経理も接点を持つか。
- 顧客側の担当者が交代しても発注が続いた実績はあるか。
- 失注または休眠した理由は、予算、競合、担当交代、品質、内製化のどれか。
13.再発注率は、案件数と金額の二つで測る
「リピーターが多い」という説明は、定義がないと検証できません。顧客単位で、ある期間に初回受注した顧客が翌12か月または翌年度に再び発注した割合を計算します。同時に、売上に占める既存顧客の比率、顧客当たりの年間案件数、初回から二回目までの日数も見ます。少額案件を多数発注する顧客と、二年に一度大型案件を発注する顧客では、同じ指標が適さないため、顧客タイプ別に区分します。
地域の映像需要は年単位の周期を持ちます。採用動画は毎年更新、観光映像はキャンペーンごと、周年映像は数年に一度、学校案内は入試制度変更時、自治体事業は予算成立後などです。発注周期を無視して一年だけで休眠判定すると誤ります。顧客ごとに「次回想定月」「予算確認月」「前回発注日」を持たせ、営業アクションへつなげます。
再発注の根拠として、過去三年の発注履歴、年間契約、次年度見積依頼、定例会、素材更新の予定などを示します。口頭の期待は「見込み」と明記し、発注書を受けた受注残と分けます。買い手に良く見せるために見込みを確定扱いすると、後の信頼を損ないます。確度の定義と証憑の有無を一貫させることが重要です。
14.受注残は「金額」よりも履行条件が大切
受注残とは、一般に受注済みでまだ売上計上されていない仕事を指しますが、社内の呼び方は会社によって異なります。台帳では、契約書・発注書を受領した「確定受注」、条件付き内示、提案中のパイプラインを明確に分けます。受注残には、受注額、既計上額、残額、今後の原価、撮影予定、納期、検収条件、キャンセル条件、必要人員を記録します。
受注残が大きくても、来期の利益をそのまま保証するものではありません。外注費や機材費が未計上、顧客素材が未着、ロケ許可が未取得、出演者が未確定なら、納期と採算が変わり得ます。受注残一覧にはリスク欄を設け、「顧客素材待ち」「撮影日未定」「追加見積協議中」などを記します。プロジェクトごとの残作業時間も見積もると、売上転換の現実性を判断できます。
提案中案件の確度ルール例
- 10%:初回相談を受け、目的や予算は未確認。
- 30%:要件確認済みで、概算見積または企画を準備中。
- 50%:正式見積を提出し、予算と決裁時期を確認済み。
- 70%:候補者が絞られ、条件調整中。内示の根拠を記録。
- 100%:契約・発注書等の社内基準を満たした確定受注。
確度を売上へ機械的に掛けて将来収益と断定するのではなく、営業管理上の目安として使います。過去の確度別成約率を後から検証し、担当者の楽観や悲観を補正します。失注案件も削除せず、失注日、競合、理由、再提案可能性を残します。失注データは、パイプラインの信頼性を示し、営業改善にも役立ちます。
15.正常収益を考える前に、事実と調整を分ける
M&Aでいう「正常収益」は、特定年度の会計利益をそのまま使うのではなく、継続的な事業運営を前提に収益力を検討する際の考え方です。ただし、調整項目や算定方法は案件、評価手法、買い手の方針によって異なり、唯一の数字が自動的に決まるものではありません。譲渡企業側が行うべきことは、まず会計帳簿と案件台帳を整合させ、調整候補の事実、金額、根拠資料を示すことです。
一過性の大型イベント、災害や感染症による中止、移転費用、機材売却益、役員の私的経費と疑われ得る支出、オーナー関連取引、保険金、補助金などは、継続性を検討する材料になります。一方で、譲渡企業に都合よく費用だけを除き、対応する売上や必要な代替コストを残すことは適切ではありません。たとえば代表者報酬を調整するなら、譲受け後に必要な経営・営業・制作管理の人件費も考える必要があります。
案件台帳は、正常収益の議論を具体化します。一過性と説明する案件について、顧客、受注理由、作業内容、粗利を示せます。反対に、毎年発生するのに今年だけ計上されていない案件は、過去の発注周期と次回状況を説明できます。議論の出発点は、推測ではなく案件の履歴です。
正常収益の検討表に持たせる列
- 会計年度と勘定科目、帳簿上の金額
- 関連する案件IDまたは証憑番号
- 調整候補の内容と発生理由
- 一過性・非事業・オーナー関連・会計方針差などの区分
- 加算・減算の方向と金額
- 反対側の影響や代替コスト
- 根拠資料と専門家の確認状況
税務上の損金性や会計処理を案件台帳だけで判断しないでください。会計帳簿の修正が必要か、M&A評価上の調整にとどまるかも含め、顧問税理士や公認会計士、アドバイザーと確認します。台帳は専門判断を置き換えるものではなく、判断に必要な事実を早く正確に渡すための土台です。
16.企業価値評価で案件台帳が果たす役割
中小M&Aの企業価値・事業価値の評価では、時価純資産法、収益還元的な方法、類似会社比較など複数の考え方が用いられることがあります。実際の手法と前提は案件ごとに異なります。案件台帳が直接「価格表」になるわけではありませんが、収益の持続性、顧客集中、必要運転資金、設備更新、経営者依存、将来計画の前提を検討する情報になります。
たとえば、同じ営業利益の二社でも、一社は上位顧客一社が売上の大半を占め、契約が都度発注で代表者だけが窓口。もう一社は複数業種へ分散し、継続契約があり、制作責任者が顧客関係を共有しているとします。後者の将来も保証されませんが、引継ぎ計画を立てる材料が多いといえます。台帳は、こうした違いを定量と定性の両面から示します。
反対に、数字を細かく作り過ぎても原資料へ追えなければ信頼されません。粗利率を小数点以下まで示すより、外注請求書の未入力をなくす方が先です。譲渡企業が期待する譲渡価格と、買い手の評価や最終条件は一致しないことがあります。評価額だけでなく、従業員の継続、屋号、拠点、取引先対応、個人保証、表明保証、引継ぎ期間など条件全体を検討します。
17.デューデリジェンスで問われる「数字のつながり」
デューデリジェンス(DD)は、買い手が財務、税務、法務、事業、人事、ITなどを確認する工程です。すべての案件で同じ範囲になるわけではありません。映像会社の案件台帳では、売上上位案件、期末前後の案件、粗利が極端な案件、長期滞留債権、関連当事者案件などが抽出され、契約から入金まで確認されることがあります。
理想的なトレースは、「案件台帳の受注額→発注書・契約書→制作・納品記録→検収→請求書→銀行入金→売掛金元帳・総勘定元帳」です。外注側は、「案件台帳の外注費→発注・業務委託→納品物・稼働記録→請求書→振込→買掛金・未払金」です。完全に紙で残っていない古い取引もあります。その場合は欠落を隠さず、代替証憑と今後の是正方針を整理します。
DDで追加質問が増える原因は、数字が悪いことだけではなく、表ごとに定義や期間が違うことです。「売上上位顧客」の集計が請求先ベース、「案件別売上」が最終クライアントベースなら、差を説明する対応表が必要です。税込・税抜、制作年度・会計年度、失注を含むか、外注費に交通費を含むかなど、集計条件を表の冒頭に書きます。
データルームのフォルダ例
- 会社・組織:登記、定款、組織図、許認可・登録
- 財務・税務:決算書、試算表、総勘定元帳、申告関連資料
- 売上・案件:案件台帳、顧客別推移、受注残、失注一覧
- 契約:顧客契約、外注契約、秘密保持、賃貸借、リース
- 人事:従業員一覧、雇用契約、規程、稼働・資格情報
- 設備・IT:固定資産、機材、ソフト、アカウント、バックアップ
- 知的財産・権利:作品、素材、出演、音源、二次利用、商標・ドメイン
- 案件サンプル:案件IDごとの見積から入金までの一式
フォルダへ何でも入れるのではなく、開示依頼リストに対する索引を作ります。資料名、対象期間、作成部署、更新日、個人情報の有無、開示レベル、補足を記録します。買い手候補が複数いる初期段階では、顧客名や個人名を匿名化した集計を使い、候補を絞った後に必要な範囲を開示するなど、秘密保持と検討効率を両立させます。
18.契約・著作権・素材の管理を案件IDへつなぐ
映像作品には、映像そのものだけでなく、脚本、音楽、写真、イラスト、ナレーション、出演、ロケ地、フォント、ストック素材など多様な権利・許諾が関わります。「制作費を受け取ったから、すべての権利が当然に移転した」「元データを自由に再利用できる」とは限りません。契約内容と制作実態を案件ごとに確認する必要があります。
案件台帳には、顧客との契約書・発注書の有無、著作権の帰属または利用許諾、利用媒体、地域、期間、二次利用、改変、第三者素材、出演同意、原版・プロジェクトデータの納品条件を要約します。ただし、要約だけで法的結論を出さず、原文へリンクします。解釈に疑問がある案件や重要作品は弁護士等へ確認します。
文化庁の著作権契約書作成支援システムは、ビデオ制作の契約書式について、制作者以外に監督・演出・撮影・美術等を担当し作品の全体的形成に創作的に寄与した者がいる場合、条項の修正が必要になり得る旨を示しています。これは、案件台帳に「自社制作」とだけ書けば十分ではないことを教えてくれます。外部クリエイターの役割と契約を把握し、M&A後の過去作品利用や改訂制作に備えます。
権利・素材欄の確認例
- 完成映像、短尺版、静止画切り出し、縦型版の利用範囲
- 顧客支給素材と自社調達素材の区別
- 音源・ストック映像・フォントのライセンス名義と期間
- 出演者、ナレーター、モデル、施設・ロケ地の許諾
- プロジェクトファイル、撮影素材、バックアップの保管期限
- 二次利用・改変・海外配信・広告出稿の条件
- ポートフォリオや受賞応募への掲載許可
19.地域案件の季節性と公的案件の特徴を台帳へ落とす
地域映像会社の年間カレンダーは、全国一律ではありません。春の観光、夏祭り、秋の産業イベント、冬の採用・学校募集、年度末の自治体検収など、地域産業と予算に連動します。案件台帳に「需要月」「予算確認月」「撮影適期」「納品期限」を持たせると、売上の谷が一時的か構造的かを説明できます。
公的案件では、入札・プロポーザル参加資格、仕様書、再委託、成果物の権利、情報管理、実績報告、検査など固有の条件があります。過去の受注実績だけで次年度受注を保証できません。案件ごとに選定方式、公告日、提案者数、評価項目、契約期間、継続可能性を記録します。担当自治体との関係を過度に強調するのではなく、仕様理解、提案力、地域クルー、緊急対応など競争力を具体化します。
地域の協力会社、宿泊、車両、ロケーション、自治体・施設との調整ノウハウは、東京など遠隔地の買い手にとって有用な資産になり得ます。これらは無形であるため、ロケ候補リスト、許可取得の手順、過去の撮影条件、季節・騒音・電源・通信事情、連絡先管理ルールとして文書化します。個人の携帯電話だけに保存せず、利用目的と個人情報保護に配慮した共有基盤へ移します。
20.人員表と案件台帳を結び、キーパーソン依存を把握する
案件ごとに、営業責任者、プロデューサー、ディレクター、技術責任者、編集責任者、経理担当を記録します。売上上位案件の大半で同じ名前が並ぶなら、その人はキーパーソンです。退職リスクだけでなく、過重労働、育成、権限移譲、顧客接点の共有を検討します。社員番号を使って集計し、個人情報を含む人事資料は開示権限を限定します。
資格や技能は「Premiereが使える」といった自己申告だけでなく、担当可能工程、案件実績、顧客折衝、見積、品質管理、後輩育成まで段階を分けます。ドローン等で法令・資格・許可に関する確認が必要な業務は、最新の要件を所管官庁や専門家に確認します。特定スタッフの資格でのみ提供できるサービスがあるなら、更新期限と代替体制も記録します。
代表者の仕事は、営業、企画、演出、撮影、編集、採用、経理、機材保守などに分解します。「社長業」という一行では代替コストを見積もれません。直近三か月の時間配分を記録し、誰へ、いつ、どの資料とともに引き継ぐかを決めます。M&A後の一定期間、代表者が引継ぎ支援を行う場合も、期間や役割は交渉事項です。
21.架空事例で見る、台帳整備前後の説明の違い
ここでは実在企業を示さない仮想例を考えます。地方都市で社員八名、年商一億円の映像会社A社は、「自治体と地場企業から安定受注」「粗利が高い」と説明していました。しかし顧客別売上は請求先名が表記揺れし、代理店経由の最終顧客が不明。外注費は月次合計、代表者の編集時間は未記録、受注残には口頭相談も含まれていました。この状態では、買い手は継続性と利益を確認しづらく、追加質問が増えます。
A社は案件IDを三年分付与し、請求書と入金を照合しました。請求先別では最大代理店が売上30%でしたが、最終クライアントは観光、製造、学校の七団体へ分散していると判明。一方、製造業の安全教育動画は毎年更新され、粗利と再発注率が高いものの、代表者一人が企画と編集を担当していました。強みとリスクが同時に見えたのです。
さらに、修正時間を記録すると、自治体案件は提案時の粗利が高い一方、年度末の複数部署確認で編集工数が増え、工数反映後利益が低いことが分かりました。A社は見積に確認窓口の一本化と修正回数を明記し、初稿前の構成承認を導入。製造業案件は若手ディレクターを同席させ、顧客との定例を共同運営しました。これらは譲渡価格を必ず上げる施策ではありませんが、収益改善と引継ぎ可能性を具体的に説明できる状態を作ります。
22.案件台帳を経営会議で使う
M&Aのためだけに台帳を作ると、更新が止まりやすくなります。毎週の制作会議と毎月の経営会議で使いましょう。週次会議では、撮影・編集負荷、素材待ち、追加修正、納期、外注手配を確認。月次会議では、受注、売上、直接粗利、工数、未請求、入金遅延、受注残、提案中案件を確認します。会議で使われる数字は自然に精度が上がります。
締め日を決め、誰が何を入力するかを明確にします。営業は顧客・見積・確度、制作進行は工程・工数・検収、経理は請求・入金・外注支払、責任者は例外承認を担当するなど、役割を分けます。一人に全部任せると遅れ、担当者が休むと止まります。入力項目を増やす前に、経営判断へ使わない列を削ることも必要です。
月次レビューの順番
- 前月からステータスが動いていない案件を確認する。
- 納品済み未検収、検収済み未請求、期日超過未入金を抽出する。
- 当初見積から10%以上変動した案件の理由を確認する。
- 粗利率と工数効率が閾値を外れた案件を振り返る。
- 上位顧客の発注状況と休眠兆候を確認する。
- 三か月先までの受注残と人員負荷を比較する。
- 経営者しか担当できない案件の引継ぎ行動を決める。
閾値は会社の事業構成に合わせます。すべての低粗利案件をやめる必要はありません。年間契約への入口、若手育成、地域での信用、他案件との一括受注など、戦略的理由がある場合はタグと期限を付けます。理由が曖昧なまま例外が常態化していないかを定期的に見直します。
23.よくある失敗と修正方法
失敗1:請求書を一行にしただけ
請求一覧は売上の確認には役立ちますが、商流、制作期間、原価、再発注、権利が分かりません。請求書番号を案件IDへひも付け、案件情報と請求明細を分けます。一本の動画でも分割請求があるため、一対一と決め付けないことが大切です。
失敗2:見込みと確定受注を合算する
期待の大きい提案を受注残に含めると、将来説明が過大になります。発注書等の社内基準を満たす確定受注、条件付き内示、提案中を別表または別ステータスにします。過去の確度別成約率も併記します。
失敗3:外注費を支払月で案件へ付ける
支払月と制作月がずれると案件採算が歪みます。請求書の対象案件を確認し、案件IDを付けます。複数案件分は明細を分け、共通費は配賦基準を定めます。会計上の計上時期は顧問専門家へ確認します。
失敗4:社内工数を無料と考える
社員給与は固定費でも、どの案件が制作能力を消費したかを見なければ受注判断を誤ります。企画、撮影、編集、修正、管理の粗い区分から時間記録を始めます。監視のためではなく、見積精度と負荷平準化のためと説明します。
失敗5:顧客名を早期に開示し過ぎる
M&A検討中であること自体が機密です。初期資料では顧客コード、業種、地域、取引年数などで説明し、秘密保持と候補者の進捗に応じて開示範囲を広げます。契約上の守秘義務や通知・同意条項も確認します。
失敗6:権利欄を「当社所有」で一括する
作品ごとに契約、参加者、第三者素材、利用条件が異なります。確証がない場合は「要確認」とし、重要案件から原契約を調べます。不明点を断定で埋めるより、確認範囲と未確認事項を明示する方が安全です。
失敗7:過去データを後から推測で埋める
古い案件の工数や受注理由が分からない場合、推定値を実績のように入力しないでください。「推定」「担当者ヒアリング」「原資料確認済み」など信頼レベルを付けます。今後の案件は実測し、過去は重要度に応じて補完します。
24.90日で整える実行計画
三年分の案件を一度に完全整理しようとすると、通常業務が止まります。90日を四段階に分け、売上上位と直近案件から精度を上げます。M&Aの予定が差し迫っている場合や資料量が多い場合は、アドバイザーと優先順位を調整してください。
1〜15日目:定義と責任者を決める
- 経営者、営業、制作、経理から小さな整備チームを作る。
- 案件の単位、案件ID、顧客コード、商流、ステータスの定義表を作る。
- 直近三期の請求一覧、総勘定元帳、外注一覧、顧客一覧を集める。
- 秘密情報、個人情報、権利資料のアクセス権を決める。
- 直近年度の売上上位20案件をサンプルに入力する。
この期間の成果は、完璧な台帳ではなく「同じ言葉を同じ意味で使える状態」です。売上先と最終クライアント、受注と内示、納品と検収など、社内で意味が違う言葉を定義します。サンプル入力で列の不足と重複を見つけ、全件展開前にテンプレートを直します。
16〜30日目:売上と回収をつなぐ
- 直近一年の全請求へ案件IDを付ける。
- 案件台帳合計と会計帳簿の売上を月別に照合する。
- 納品済み未検収、検収済み未請求、期日超過未入金を抽出する。
- 上位顧客の請求先・最終顧客・商流を整理する。
- 確定受注と提案中案件を分離する。
差額が出たら、雑収入、機材売却、キャンセル料、値引き、期ズレ、複数案件の一括請求などを確認します。数字を無理に合わせず、差異調整表を残します。照合作業で見つかった未請求や入金遅延は、顧客関係に配慮しつつ通常の回収手続へつなげます。
31〜50日目:原価と工数をつなぐ
- 外注請求書と経費精算へ案件IDを付ける。
- 外注費、機材費、旅費、出演、音源等の原価区分を決める。
- 今後の全案件で工程別工数の入力を開始する。
- 上位20案件は担当者ヒアリングで過去工数を概算し、推定表示する。
- 直接粗利、工数反映後利益の試算と会計数値の調整表を作る。
過去工数の復元に時間をかけ過ぎないことがポイントです。カレンダー、編集ファイルの更新日、撮影日報などから概算できても、実測ではありません。推定の根拠を残し、将来はタイムトラッキングで精度を上げます。
51〜70日目:継続性と契約を確認する
- 上位顧客の三年推移、再発注率、発注周期を集計する。
- 主要顧客と主要外注先の契約、更新、解約、支払条件を一覧化する。
- 売上上位案件の権利、出演、音源、素材保管を確認する。
- 代表者依存、キーパーソン依存、代替困難な外注を特定する。
- 受注残の残作業、原価、検収時期、リスクを見直す。
すべての契約を一度に法務精査できない場合、金額、継続性、権利利用の重要度で優先順位を付けます。不明点を「問題なし」に置き換えず、未確認リストを作ります。M&Aの相手候補へいつ、何を、どの形で開示するかはアドバイザーと決めます。
71〜90日目:経営資料とDD索引へ仕上げる
- 売上・粗利・案件数・再発注・受注残の月次ダッシュボードを作る。
- 上位顧客、商流、案件種類、地域別の三年比較を作る。
- 一過性項目と正常収益の調整候補を専門家と確認する。
- 案件サンプルの見積から入金までをフォルダへそろえる。
- 資料索引、定義書、差異調整表、未確認事項リストを作る。
- 月次更新の担当、締切、承認手順を運用規程にする。
90日目は完成日ではなく、運用開始日です。毎月の締めで差額と未入力を確認し、四半期ごとに分類や指標が経営判断へ役立っているか見直します。M&Aを実施しない場合でも、採算改善、資金繰り、営業引継ぎ、制作負荷の平準化に使える台帳が残ります。
25.買い手へ見せる集計資料の作り方
初期資料では、案件明細をそのまま渡すより、匿名化した集計で事業像を示します。三期分の売上、粗利、案件数を、顧客、商流、案件種類、地域、受注経路ごとに集計します。上位顧客は「地場製造A」「自治体関連B」「地域代理店C」のようにコード化し、取引年数、直近受注、再発注回数、売上構成比、粗利率を示します。
グラフは見栄えより定義を優先します。売上構成比の円グラフだけでなく、三年推移の棒グラフ、顧客継続のコホート、受注から入金までの日数分布、案件種類別の粗利額と工数を用意すると、変化を説明できます。グラフ下には、税込・税抜、集計単位、会計年度、除外項目を明記します。
良い資料は、強みだけでなくリスクと対策を対にします。「上位代理店が売上25%」に対し、「最終顧客は六業種へ分散」「担当窓口は二名」「基本契約を確認中」と記します。「代表者が主要顧客を担当」に対し、「制作責任者が過去半年の定例へ同席」「引継ぎ期間を検討」と記します。リスクを隠さず、管理していることが信頼につながります。
26.M&Aを急がない会社にも案件台帳が効く理由
案件台帳の整備は、譲渡を決めた会社だけの作業ではありません。経営者が病気や事故で一時離脱したとき、顧客と制作の状況を他の社員が引き継げます。値上げ交渉では、修正工数や外注価格の上昇を根拠として示せます。採用では、どの工程が不足しているか分かります。機材投資では、稼働頻度とレンタル費を比較できます。
さらに、地域の信用を次世代へ渡す準備になります。担当者の頭の中にある「この学校は夏休み中に撮る」「この工場は安全教育を先に受ける」「この祭りは電源が限られる」といった知識を、案件メモとチェックリストへ変換します。情報を標準化しても、現場の勘が不要になるわけではありません。経験者が判断しやすい土台を会社に残すのです。
27.案件台帳の品質を測るチェックリスト
設計と定義
- □ 全案件に重複しない案件IDがある。
- □ 案件、顧客、請求、原価の単位が定義されている。
- □ 営業確度、制作工程、請求回収のステータスが分かれている。
- □ 税込・税抜、会計年度、売上計上基準の表示がある。
- □ 推定値と原資料確認済みの実績値を区別している。
顧客と商流
- □ 請求先と最終クライアントを分けている。
- □ 直取引、代理店、下請、公募等の商流を分類している。
- □ 紹介元、受注理由、失注理由を記録している。
- □ 代表者以外の顧客接点を把握している。
- □ 上位顧客の三期推移と企業グループ集約を確認した。
売上・原価・工数
- □ 当初見積、変更見積、最終受注、計上、請求を分けている。
- □ 外注費、機材費、旅費、出演料、音源等を案件へひも付けた。
- □ 共通費の配賦基準が文書化されている。
- □ 代表者を含む社内工数を工程別に記録している。
- □ 修正回数、修正理由、追加請求の有無が分かる。
- □ 案件台帳合計と会計帳簿の差異調整表がある。
受注残・継続性
- □ 確定受注、条件付き内示、提案中を分離した。
- □ 受注残の残原価、残工数、納期、検収条件を確認した。
- □ 顧客別の再発注率、発注周期、直近受注日が分かる。
- □ 確度別の過去成約率と失注履歴を保存している。
- □ 季節性と年度末集中を月別に説明できる。
検収・請求・入金
- □ 納品日と検収日を分けている。
- □ 検収条件と承認記録の保存先がある。
- □ 請求日、支払期日、入金予定、実入金を記録している。
- □ 納品済み未検収、検収済み未請求を抽出できる。
- □ 期日超過債権の理由と対応履歴がある。
契約・権利・情報管理
- □ 顧客・外注との契約書や発注書を案件IDで検索できる。
- □ 著作権、利用許諾、二次利用、改変条件を案件ごとに確認した。
- □ 出演、音源、ストック素材、フォント等の条件が分かる。
- □ プロジェクトデータと撮影素材の保管場所・期限がある。
- □ 個人情報と顧客秘密のアクセス権を設定している。
- □ M&A初期資料では顧客名を適切に匿名化できる。
DDと運用
- □ 上位案件について見積から入金まで一連の証憑を出せる。
- □ 資料索引、定義書、更新日、作成責任者が分かる。
- □ 未確認事項を隠さず一覧化している。
- □ 毎週・毎月の会議で台帳を利用している。
- □ 入力、確認、承認、バックアップの担当が分かれている。
- □ 四半期ごとに項目と集計の有用性を見直している。
28.よくある質問
Q1.何年分の案件台帳が必要ですか。
一律の年数はありませんが、業績推移や顧客継続を説明するには複数期の比較が役立ちます。まず直近一年を正確にし、売上上位顧客と大型案件は過去三期程度へ広げる方法が現実的です。季節性や数年周期の案件が多ければ、より長い履歴が参考になる場合があります。実際の開示範囲は取引とDDの方針に応じて決めます。
Q2.小さな案件も一件ずつ入力すべきですか。
原則は案件単位ですが、定型的な少額サービスを月次一括で管理する方が実務的なこともあります。どこから一括にするか基準を決め、重要顧客、権利、未回収が埋もれないようにします。M&A資料では、集約件数と金額を明示します。
Q3.粗利率は何%なら高く評価されますか。
業務内容、商流、内製・外注、社内工数、設備負担によって適切な水準は異なります。単一の目安で評価できません。自社の案件種類別、顧客別、年度別に比較し、差の理由と継続性を説明することが重要です。
Q4.代表者の工数はどう金額換算しますか。
まず営業、制作、管理など役割別の時間を記録します。金額換算には役割を代替する人材の報酬、社内標準単価など複数の考え方があります。評価や会計処理とは分け、アドバイザーや会計専門家と前提を確認してください。
Q5.口頭発注は受注残に含めてよいですか。
確定受注の社内基準を定め、口頭の相談や期待は提案中または条件付き内示として分けるのが安全です。取引慣行上、発注書が後日になる場合も、承認メール、予算、決裁者、キャンセル条件など根拠を記録します。契約成立の法的判断が必要な場合は専門家へ確認します。
Q6.顧客名を買い手候補へいつ開示しますか。
秘密保持契約、候補者の信頼性、検討段階、契約上の守秘義務、競合関係を考慮して段階的に決めます。初期は匿名化した顧客属性と集計で説明し、必要性が高まった段階で範囲を限定して開示する方法があります。アドバイザーや弁護士と開示計画を作ってください。
Q7.作品データや素材はすべて譲渡対象になりますか。
会社が保有する資産であっても、顧客契約、第三者素材のライセンス、出演許諾、個人情報、保存義務などにより利用や移転に条件がある場合があります。株式譲渡か事業譲渡かによっても確認事項は異なります。案件別の権利台帳を作り、契約原文と専門家の確認に基づいて判断します。
Q8.会計ソフトがあれば案件台帳は不要ですか。
会計ソフトは帳簿管理の中心ですが、最終クライアント、商流、修正工数、制作工程、再発注予定、権利情報までは持たないことがあります。会計データを正としつつ、案件IDで制作・営業情報とつなぐ設計が有効です。二重入力を減らすため、CSV連携や項目責任を検討します。
Q9.台帳に誤りが見つかったら、過去データを書き換えてよいですか。
誤りを放置する必要はありませんが、修正日、修正者、理由、変更前後が分かる履歴を残します。会計帳簿や申告に関係する誤りは、自己判断で処理せず顧問専門家へ相談します。M&A相手へ既に開示した資料なら、訂正版と差分を速やかに共有します。
Q10.案件台帳を作れば譲渡価格は上がりますか。
価格上昇は保証できません。台帳は、業績、顧客、リスク、引継ぎ可能性を検討する材料を整えるものです。情報の不足による不確実性を減らし、経営改善や条件検討を進めやすくする効果は期待できますが、最終条件は買い手との交渉、事業環境、財務、契約など多くの要因で決まります。
Q11.赤字案件は削除した方が見栄えがよいですか。
削除すべきではありません。赤字の原因、再発防止、戦略的意義を説明します。追加修正、見積漏れ、外注価格、学習投資など原因を分けると、改善可能性が見えます。不都合な案件を除くと、会計帳簿との不一致が生じ、信頼を損ないます。
Q12.どのタイミングで専門家へ相談すべきですか。
譲渡を決める前の情報整理段階から相談できます。特に、顧客集中、経営者保証、権利帰属、未回収、関連当事者取引、会計と台帳の不一致、従業員への伝達時期などに不安がある場合は早めの相談が有用です。相談先の手数料、業務範囲、利益相反、秘密保持も確認してください。
29.一案件を最初から最後まで記録する具体例
テンプレートの使い方を具体化するため、架空の「地場食品メーカーの商品ブランド動画」を例にします。相談は既存の広告代理店から入り、最終クライアントは食品メーカーです。三分のブランド動画一本、15秒の縦型動画三本、商品写真十点を納品する計画で、工場と農園の二日撮影を予定しています。この時点で案件IDを発行し、請求先は広告代理店、最終クライアントは食品メーカー、商流は代理店経由、流入は既存顧客からの再発注と登録します。
初回ヒアリングでは、使用媒体、公開期間、ターゲット、撮影希望時期、予算、決裁者、競合提案の有無を記録します。企画書提出前に、食品表示や工場内安全、社員・生産者の出演、商品パッケージ変更予定、音源の広告利用範囲を確認します。「地域の温かさを伝える」という抽象的な要望は、誰を取材し、何を撮り、どの媒体でどう評価するかへ分解します。この要件メモが後の修正範囲を判断する基準です。
当初見積は300万円で、企画30万円、撮影120万円、編集90万円、出演・音源等30万円、進行管理30万円とします。見積の内訳は経営管理用であり、顧客へどこまで示すかは営業方針によります。受注後、天候予備日を追加し、代理店から承認メールを受けて20万円増額。台帳では当初見積300万円、承認済み変更20万円、最終受注320万円とし、変更見積へのリンクを付けます。
制作中は、撮影担当と日程、外注発注、機材予約、ロケ許可、出演同意を記録します。撮影後、外注請求が想定より五万円増えた場合は、理由を「天候対応による拘束延長」とします。編集工数は初稿まで45時間、顧客修正18時間、自社修正3時間。修正指示が代理店とメーカーの双方から届いたため、二稿目以降は代理店が一本化する運用に変更したことも残します。
納品時は、ブランド動画、縦型動画、写真の各ファイル名と納品先を記録します。メイン動画だけ承認されても、写真の差替えが残っていれば案件全体の検収条件を確認します。広告代理店から「全成果物検収」のメールを受けた日を検収日とし、翌営業日に請求。支払条件が月末締め翌月末なら入金予定日を自動計算し、実入金後に消し込みます。
案件完了時の振り返りでは、受注320万円、直接原価145万円、直接粗利175万円、社内工数140時間という事実を確定します。工数反映後利益を計算する場合は、標準単価の定義を明示します。再発注欄には「翌春の新商品動画を予算検討、確定発注ではない」と記録し、営業確度30%、確認予定月を設定します。この一連の記録により、売上、採算、権利、回収、次回営業が一つの案件IDでつながります。
30.案件台帳を支える五つの補助台帳
一枚の表だけですべてを管理すると、同じ顧客名や外注先名が何度も入力され、表記揺れと更新漏れが起きます。案件台帳を中心に、顧客マスター、請求・入金明細、原価・外注明細、人員・工数明細、契約・権利台帳の五つを案件IDで結びます。表計算ソフトでも、この関係を意識すればデータの重複を減らせます。
顧客マスター
顧客コードごとに正式法人名、請求先、業種、地域、企業グループ、支払条件、取引開始年、主要窓口を管理します。案件台帳では顧客コードを選択し、正式名を毎回手入力しません。組織変更や担当交代は履歴を残します。最終クライアントが異なる代理店案件では、請求先コードと最終顧客コードの二つを持たせます。
請求・入金明細
一案件に着手金、中間金、完了金がある場合、案件台帳一行へ三回の請求を入れず、子テーブルで管理します。請求書番号、対象案件ID、請求額、税、請求日、支払期日、入金日、入金額、消込状況を記録します。一枚の請求書に複数案件が含まれる場合は、請求書番号を共通にしつつ案件別金額を分けます。
原価・外注明細
支払先コード、案件ID、費目、役割、発注額、請求額、支払日を持たせます。当初予算と実績を比較できると、見積精度が分かります。交通費込みの外注日当、機材込みの撮影費など内訳が分からない取引は、契約条件を確認したうえで「パッケージ外注」として区分し、推測で分解しません。
人員・工数明細
日付、社員番号、案件ID、工程、時間、備考を記録します。休憩や労働時間管理など人事労務上の記録と、案件採算用の工数は目的が異なる場合があります。両者の関係を整理し、就業管理については法令と社内規程を専門家に確認します。案件採算の入力がサービス残業を正当化する運用にならないよう注意します。
契約・権利台帳
契約番号、案件ID、相手方、契約種類、締結日、期間、更新・解約、権利要約、原本保存先、確認者を持たせます。一つの基本契約が多数案件へ適用される場合は、契約番号を各案件から参照します。出演同意や素材ライセンスは成果物ごとに条件が違うため、必要に応じて明細化します。
補助台帳間の整合を保つため、案件ID、顧客コード、支払先コード、社員番号の採番責任者を決めます。削除ではなく無効フラグを使うと、過去案件の参照が壊れません。年度更新時にコード体系を変えず、組織名変更は履歴で対応します。
31.デジタル運用・バックアップ・変更履歴の実務
案件台帳には顧客秘密、個人情報、価格、外注条件が含まれます。便利さだけで共有範囲を広げず、経営者、営業、制作、経理、外部アドバイザーごとに閲覧・編集権限を設計します。全員が全列を編集できる状態は、誤操作と情報漏えいの双方を招きます。特にM&A検討フラグ、希望条件、買い手候補名は通常の制作台帳から分けます。
クラウドサービスを使う場合は、多要素認証、退職者アカウント停止、共有リンクの期限、アクセスログ、データ保存地域、エクスポート方法を確認します。代表者個人の無料アカウントへ会社資料を集約すると、承継時に管理権を移しにくくなります。会社管理のドメインと管理者アカウントを用意し、予備管理者を設定します。
バックアップは「クラウドにあるから安全」と決め付けません。誤削除、ランサムウェア、契約終了、同期ミスに備え、世代管理と復元テストを行います。台帳本体、証憑、作品データでは容量と復旧優先度が異なります。少なくとも、何を、どこへ、どの頻度で、誰がバックアップし、復元にどれくらいかかるかを台帳化します。
変更履歴には、更新日時、更新者、対象案件、変更項目、変更理由を残します。とくに受注額、検収日、入金日、確度、権利条件の変更は、後から追えるようにします。表計算ファイルをメール添付で回覧し「最終版2_修正版」のようなファイルが増える運用は避け、正本を一つに定めます。外部へ提出する際は、提出日と抽出条件を記載したスナップショットを保存します。
入力チェックも自動化できます。受注日より検収日が前、入金済みなのに請求日が空欄、確定受注なのに根拠資料がない、直接粗利が売上を超える、同じ請求書番号の合計が原本と違う、といった条件を警告表示します。ただし、自動チェックが「正しい」と保証するわけではありません。月次で人が例外を確認します。
32.譲渡企業側で行うセルフレビュー
買い手から質問を受ける前に、経営者、制作責任者、経理担当で案件台帳を読み合わせます。目的は回答を取り繕うことではなく、認識差を見つけることです。営業は「受注済み」と考え、経理は「発注書なし」と考えている案件、制作は「検収済み」と考え、顧客は「一部修正中」と認識している案件を洗い出します。
セルフレビューで問う二十の質問
- 直近三期の売上合計は決算書と整合し、差額を説明できるか。
- 期末前後の大型売上は、納品・検収条件と整合するか。
- 売上上位顧客の請求先と最終顧客を取り違えていないか。
- 休眠顧客を継続顧客として数えていないか。
- 口頭相談を確定受注として集計していないか。
- 受注残に必要な外注費と残工数が見積もられているか。
- 大型案件の値引き、追加請求、赤字理由が記録されているか。
- 代表者の無償稼働を除いた採算も検討したか。
- 外注請求書に案件IDがなく、原価が漏れた案件はないか。
- 機材購入や修理を案件原価と二重計上していないか。
- 納品済み未請求、入金期日超過を放置していないか。
- 取引条件と実際の入金サイトが大きく違う顧客はないか。
- 上位顧客の窓口が代表者一人に集中していないか。
- 主要外注先がM&A後も当然に継続すると仮定していないか。
- 契約の更新、解約、通知・同意に関する条項を確認したか。
- 過去作品の権利や素材利用範囲を一括で断定していないか。
- 個人アカウントに保存された顧客資料や素材はないか。
- 正常収益の調整候補に、対応する代替コストを反映したか。
- 予測値、推定値、確定実績を表示上区別しているか。
- 不明な事項を「問題なし」とせず未確認リストに載せたか。
レビューで見つかった問題には、重大度、対応責任者、期限を付けます。すぐ直せる表記揺れと、契約相手との協議が必要な権利問題を同列に扱わないことが重要です。事業継続や取引先に影響する事項は、独断で相手へ連絡せず、M&Aアドバイザーや専門家と伝え方・時期を相談します。
33.数値の読み方を誤らないための簡易例
案件台帳の集計値は、比較の出発点です。たとえば三年間で100社と取引し、翌年も発注した会社が40社なら、単純な再発注率は40%と計算できます。しかし、残り60社のうち30社が周年記念や単発イベントなら、継続性の解釈が変わります。顧客タイプと発注周期を併記し、数値だけで優劣を決めません。
受注残1,000万円も、残原価600万円で撮影日が確定している案件と、残原価200万円だが顧客素材が未着で検収時期不明の案件では意味が違います。受注残粗利見込み、必要工数、売上転換月、リスクを並べます。見込み粗利は将来の実績ではないため、外注価格や修正で変動し得ることを明記します。
顧客集中では、上位一社が売上35%でも、三年契約の定型動画とスポット大型案件ではリスクが違います。契約期間、更新実績、解約条件、担当窓口、採算、入金を確認します。また、同じ企業グループの別法人を別顧客として分散扱いしないよう、グループ集計も行います。
工数効率は「直接粗利÷社内工数」で一時間当たりの貢献を比較できます。ただし、若手育成、営業開拓、地域貢献を目的とする案件を機械的に排除する指標ではありません。戦略タグと評価期間を決め、目的を達成したか別途確認します。数字は意思決定を支えますが、会社の方針を代わりに決めるものではありません。
34.成約後の引継ぎを見据えた台帳の仕上げ
M&Aは契約と決済で終わらず、その後の統合・引継ぎが事業継続を左右します。案件台帳は、決済時点の受注残、請求、入金、顧客対応、制作スケジュールを新旧経営陣で共有する運営表になります。誰が顧客へ挨拶し、誰が制作判断をし、誰が請求を承認するかを案件単位で決めます。
顧客への説明は、契約上の通知・同意、秘密保持、競合関係を確認したうえで計画します。上位顧客だけを先行し、地域の紹介者や協力会社へ後で伝えると、別経路から情報が広がる場合があります。一方、早過ぎる一斉通知も不安を招きます。関係者マップを作り、伝達順序、説明者、想定質問、継続方針を用意します。
制作中案件では、作品の方向性、顧客承認、残修正、素材、納期、権利確認を引継ぎメモにします。口頭で「いつもの感じ」と伝えるのではなく、絵コンテ、過去版、ブランドガイド、レビュー履歴へリンクします。顧客の好みを過度に個人評価せず、「テロップは社内用語集に合わせる」「初稿は広報確認後に法務確認」など行動可能な情報に変えます。
主要外注先には、今後の発注主体、窓口、支払条件、秘密保持、データ返却を確認します。過去と同じ条件が自動的に続くとは限りません。買い手が発注システムや支払サイトを変更する場合、地域クルーの資金繰りへ影響する可能性もあります。移行期間を設け、相手の理解を得ながら進めます。
引継ぎ後の30日、60日、90日で、上位顧客の継続、受注残の納品、未回収、退職、外注継続、品質・納期をレビューします。譲渡企業が一定期間支援する場合は、どの案件へ何時間関与したか記録し、権限と責任を曖昧にしません。中小PMIに関する公的ガイドラインも参考にしつつ、会社規模と取引条件に合った計画を専門家と作ります。
35.数字に添える「経営者コメント」の書き方
案件台帳を買い手へ共有するとき、数字だけを渡すと背景が伝わらず、逆に物語だけを語ると客観性が不足します。集計表ごとに、事実、経営者の解釈、今後の対応を分けて短いコメントを添えます。たとえば「二〇二五年度は観光案件が前期比で減少した」が事実、「大型キャンペーン終了と天候による撮影延期が主因」が解釈、「延期案件は翌期に発注済みだが、季節依存を下げるため製造業の研修動画を提案中」が対応です。延期分を将来売上として断定せず、発注書の有無と残作業を示します。
強みのコメントも具体化します。「地域密着」ではなく、「県内五市町の観光・移住案件を三年間で二十八件担当し、うち十九件は既存顧客または紹介経由。撮影許可の手順と地域クルー連絡網を社内共有」と書けば、台帳で確認できます。「高い技術力」ではなく、「ライブ配信案件十二件で、回線予備、録画バックアップ、音声系統を標準チェックリスト化し、重大な配信停止なし」のように対象期間と根拠を明示します。品質を保証する表現ではなく、確認可能な実績として説明します。
弱みは、原因と対策の進捗を分けます。「代表者依存がある」なら、売上上位十社のうち代表者単独窓口が六社、共同窓口が三社、社員単独が一社という現状を示します。対策は、三社で制作責任者を定例へ同席、二社は次回企画から共同提案予定、残る一社は顧客の繁忙期後に紹介予定、と具体化します。未実施の対策を完了したように見せないことが重要です。
例外的な年度については、増減双方を同じ基準で扱います。大型イベントで利益が増えた年だけを通常収益に含め、機材故障や移転で費用が増えた年だけを除くような説明は説得力を欠きます。発生頻度、事業との関連、今後の代替費用、根拠資料を並べ、最終的な評価上の取扱いは買い手と専門家の検討に委ねます。
コメントを書く際の六つの原則
- 期間を示す:「最近」ではなく対象年度や直近十二か月を明記する。
- 母数を示す:「多くの顧客」ではなく対象社数、案件数、売上額を示す。
- 事実と見込みを分ける:発注済み、内示、提案中を同じ言葉で表さない。
- 不利な事実も同じ基準で扱う:失注、赤字、入金遅延を削除せず理由を確認する。
- 人ではなく工程を説明する:顧客や社員を評価する言葉より、起きた事象と改善行動を書く。
- 根拠へつなぐ:案件ID、契約、議事録、集計表など確認先を付ける。
経営者コメントは、買い手へ自社を売り込む広告文ではなく、台帳の読み方を案内する注釈です。分からないことは「未確認」、相手との協議が必要なことは「要協議」、専門判断が必要なことは「専門家確認中」と表示します。誠実で一貫した説明は、案件台帳の数字と同じく、取引を進める基盤になります。
36.まとめ―価格を説明する前に、会社の仕事を説明できる状態へ
映像制作会社の案件台帳は、売上を並べる表ではありません。顧客と商流、企画から検収までの工程、外注と機材、社内工数、権利、請求と入金、次回受注を案件IDでつなぐ経営基盤です。これが整うと、「地域で信頼されている」「リピートが多い」「技術力がある」という言葉を、履歴と数字で説明できます。
着手の順序は、直近一年、売上上位案件、未請求・未入金、確定受注からです。次に外注費と工数、上位顧客と再発注、契約・権利へ広げます。未確認事項は無理に断定せず、確認状況を表示します。買い手に良く見せるためだけでなく、次の経営者と制作チームが地域の顧客、外注先、作品を安全に引き継げる資料を作ることが目標です。
M&Aを検討するかまだ決めていない段階でも、案件台帳を整える価値はあります。自社の強みと課題を把握し、選択肢を比較してから判断できます。秘密保持に配慮した初期相談については、譲渡企業様向けページからご確認ください。
参考資料・公式情報
以下は制度や実務の背景を確認するための公式資料です。リンク先の改訂状況と、自社への適用関係を必ず確認してください。